文化庁調査発表。“日本語の乱れ”の張本人はオールドメディアではないか?「必ずや名を正さんか」【呉智英】
『言葉につける薬』より
■全国紙の深刻な言葉の乱れ
一九九〇年十二月二十七日付朝日新聞(以下、日付は大阪本社版による)の社説は、年末らしく、行く年を回顧し来る年に期待する“格調高い”文章であった。国際化時代の日本を論じ、日本人の外国人観を問いなおそうとするその社説は、アジア系在日外国人に対する偏見やデマを非難して、次のように言う。
「〈偏見やデマを受け容れる人は〉事実を確かめる努力以前に、自分だけが正しい、ときめ込んでしまう。顧みて他を言う姿勢とは、ほど遠い」
そうだ、私も自戒しなければならぬ。事実を確かめる努力を怠り、自分だけが正しいときめ込むことは、私にもありがちである。しかし、「顧みて他を言う」姿勢に学ぼうとは決して思わない。そういう言いのがれはすまいと普段から心掛けているからである。年が明けた一九九一年一月六日の社説末尾に、次のような訂正記事が出た。
「十二月二十七日付社説の中で『顧みて他を言う』とあるのは『自らを反省したうえで他者にものを言う』の誤りでした。訂正します。『顧みて他を言う』(出典は『孟子』)とは、答えに窮したとき別なことを言ってごまかす、という意味です」
さすが、新聞社の顔、社説欄だけあっていさぎよい。「顧みて他を言う」ことなく、誤りを認めて訂正記事を出したのだから。
しかし、ワシントン少年がいくら立派だといっても、初めから桜の樹を切っていなければ、もっと立派だったはずである。まして少年ならぬ論説委員氏は、いさぎよさ以前に、桜の樹を切らないように十分注意すべきだった。
論説委員クラスでそうなのだから、並の記者の書く誤用は指摘すればきりがない。今度は産経新聞からも一例挙げておこうか。一九九二年十二月三日付夕刊の書評欄の記事である。
アルコール依存症治療に取り組む精神科医にインタビューした橋本明子記者は、こう書く。
「労働力の低下や事故、医療費など飲酒がらみの経済的ロスは、年間六兆六千億円、酒税の三倍にものぼるというのだ。もはや他人事、とおっとり刀で構えていられない」
橋本明子記者は、アルコール依存症が経済的にも深刻な問題になっているけれど、医療関係者はゆっくり昼寝でもしていろ、と言いたいのだろうか。なんだかわけがわからない。
「おっとり刀」と「おっとり構える」とでは意味が逆になることぐらい、桜の樹を切りたがる悪戯ざかりのガキだって知っている。それを、大新聞の記者、しかも書評欄担当記者が誤用する。その上、校閲部を素通りしてしまう。
ところで、産経新聞を含む大新聞では、記者の使うワープロには“自主規制回路”が組み込まれているという。差別語と烙印された言葉は、いくらキーを叩いても出て来ない。「片手落ち」も「盲縞」も「貧民窟」も「士農工商」も「土人」も、出力不可能である。校閲を効率よくするためだ。かくて、中学生並みの誤用誤文がまかり通る一方で、自動検閲装置が人間の思考力を奪ってゆく。
私の言う日本語の乱れとは、このことである。
私はあまりにも誇大な話をしているのだろうか。自分の力量を省みれば、そうかもしれない。しかし、仮にも思想に関わり、言葉を金に換えて生活している以上、思想と言葉に関心と矜持を抱くのはむしろ責務だろう。『ヨハネ福音書』の冒頭の有名な一節「初めに言葉ありき」の「言葉」が、原ギリシャ語で「ロゴス」であることは偶然ではない。言葉と論理、言葉と思想が深くつながっていることを明示しているのだ。